青い海と美しい島々が点在する瀬戸内海を跨いで、本州と四国を結ぶ。
それは我が国が国力を傾注して、橋梁技術の粋を結集させた壮大な国家プロジェクトでした。当社も総力を挙げて参画し、9橋の建設に当たりました。
3ルートのなかで最後に開通したのが尾道〜今治ルート(しまなみ街道)。1999年(平成11年)5月でした。それから早や11年が過ぎました。
ここでは、当社が建設に参画した橋梁を中心に本州四国連絡橋について簡単にご紹介いたします。
本州四国連絡橋ルートマップ
赤い部分は当グループが施工した区間を表しています。マウスカーソルを持って行くと橋梁名が表示されます。
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本四架橋への構想
1889年(明治22年)、讃岐鉄道の開通式の席で香川県議会議員
(おおくぼじんのじょう)が、本州と四国との間に橋を架ける構想(瀬戸大橋架橋)を提案したことが、この構想のはじまりとされている。後の1914年(大正3年)には、徳島県選出代議士の中川虎之助が、鳴門海峡に橋を架けるための調査を行うよう国会に提案したとされる。しかしこの提案は、全くの夢物語とされた。昭和に入ると、後の神戸市長である原口忠治郎が「明石海峡架橋構想」を固めたとされる。
本州四国連絡橋:神戸〜鳴門ルート
大鳴門橋
明石海峡大橋
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本四架橋計画まで
1955年(昭和30年)、国鉄宇高連絡船「紫雲丸」の海難事故が起きた。香川県高松港を出港した国鉄宇高連絡船「紫雲丸」が、高松北西4キロの瀬戸内海で岡山県宇野港発の国鉄貨物船「第3宇高丸」と衝突、沈没した。事故当時、紫雲丸には修学旅行生を含む乗客730人がおり、そのうち168人が死亡するという大惨事であった。この事故を契機に、各ルート沿線の自治体で架橋推進協議会が発足され、架橋誘致運動が活発化。1959年(昭和34年)には国鉄や建設省による調査が開始され、本四連絡橋架橋が具体化された。
その後、激しい誘致合戦の末、3ルートに絞り込まれた。神戸〜鳴門ルート、児島〜坂出ルート、尾道〜今治ルートである。
1970年(昭和45年)、閣議により3ルートの実施設計調査を同時に着手する方針が決定し、本州四国連絡橋公団が設立され、1973年(昭和48年)に工事実施計画の認可を受けた。起工式は11月に予定され、四国4県の人々の人命を守るため、また、物流・運輸・観光の時間短縮を目的とした国家プロジェクトは、工事着工へ向けて動き出した。
しかし、着工を目前に控えた矢先に起こった第一次オイルショックの発生により、「着工延期」の指示が下った。起工式の5日前のことである。
本州四国連絡橋:児島〜坂出ルート
岩黒島橋(奥)と与島橋(手前)
岩黒島橋(浜出し)
南備讃瀬戸大橋
与島橋(架設中)
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本四連絡橋建設
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構想から計画、着工延期後の1975年(昭和50年)、本四連絡橋架橋の第1号となる大三島橋が着工を迎え、1979年(昭和54年)には全架橋のトップをきって、開通に至った。
本四連絡橋架橋第1号が開通してから約9年後の1988年(昭和63年)、児島〜坂出ルート(瀬戸大橋)が全面開通となり、歴史上初めて本州と四国とが陸続きになった。
時を同じくして青函トンネルも開通し、日本列島の4つの島は鉄道で結ばれた。1998年(平成10年)には明石海峡大橋が開通し、神戸・鳴門ルートが全面開通となった。翌年の1999年(平成11年)、最後のルートである尾道〜今治ルート(瀬戸内しまなみ海道)が全面開通し、構想から約110年の歳月を経て夢は現実となった。こうして、壮大な国家プロジェクトとしてスタートを切った本四連絡橋架橋計画は、完結したのであった。
斯くして、完成した橋は今日まで姿を変えることなく、四国市民の生活を支え続けている。
本州四国連絡橋:尾道〜今治ルート
多々羅大橋
大三島橋
大島大橋(架設中)
来島海峡大橋
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